LOGIN目を開けると、すでに薄いカーテンから陽の光が漏れていた。「昨日は結局、一時間くらいしか眠れなかった」 体感での睡眠は一時間前後。「医師だった時は、夜勤も平気だったのに。身体のサイクルが狂ってしまったわ」 医師だった時の凜華は、夜勤や夜間診療、救急もこなしている。 刑務所へ入って、早寝早起きの生活、それに日々の肉体労働が彼女の身体のサイクルを変えていた。(身体が重く感じる。睡眠不足だからね。昨日は日葵もよく寝てくれた方なのに) となりでスヤスヤ眠っている娘を見て、安堵する。 いつものように出勤し、ホテルの客室掃除、庭の掃き掃除、その他の肉体労働を終え、凜華は不安を覚えながら帰宅しようとしていた。(まさか、毎日あんなに酷いイタズラはされないわよね) 嫌な予感もありながら、鼓動を速くしながら凜華は自宅アパートの部屋を見た。「えっ!」 そこには――。<犯罪者。出て行け> 玄関ドアに真っ赤なスプレーで書かれていた。「誰がこんなことをっ!」 凜華は、さっと部屋に入り、日葵を横にさせ、玄関ドアのスプレーの汚れを取ろうと必死に擦った。(専用のクリーナーを使っているのに、昨日より落ちない。どうして?)(昨日の落書きが消してあるのを見て、より強力な塗料を使ったの? そこまでする必要がある?) 文字が見え辛くなるまで擦り、部屋へ戻る。日葵の食事を作り、寝かしつけ、再度玄関ドアへ戻る。(こんな生活が毎日続くの……。犯人は誰?) 見えない恐怖を感じながら、やっとの思いで汚れを何とか落とす。(まさか、直哉が? ううん。直哉だったらこんな子どもみたいな真似はしない。もっと残酷な方法で私を陥れるはず) ベッドの中で犯人を思い浮かべる。(直哉や涼真ではない。もっと姑息で子どもみたいな人のやり方よ)(警察へ相談したら、話を聞いてくれるかしら) 次の日――。 凜華の寝不足は二日連続で続き、目の下にクマができていた。 掃除をしていると、上司から呼び出しを受け、スタッフルームへ向かう。「おい。最近、慣れてきたからって、掃除に手を抜いているだろう?」 上司から言われた一言、凜華は思わず「そんなことありません」 否定をした。「昨日だけで、お前に関する苦情が五件も入っているんだよ。宿泊者アンケートに部屋が汚いって、クレームが殺到している。お前の名
「お嬢様、桜庭凜華の住処がわかりました。直哉様の使用人を通じて、情報を得ました」 それは唯衣にとっての吉報だった。「婚約者である私が頼みこめば、直哉さんの使用人だって教えてくれるわよね!」 自室でスマホを見ていた唯衣だったが、ここ数日、動いていた。 まず、直哉の使用人を当たってみること。 自分が将来の婚約者であることを強みに、揺さぶりをかける。使用人の中には固く口を閉ざした者もいるようだが、何度かの交渉の末、口を割った物がいた。「それで? どこに住んでいるの?」「ホテルの従業員として働き、社員寮に住んでいるらしいです」(住み込みで働いてるってことね。さぞ、古いところへ住んでいるんでしょう。私じゃ考えられないわ)(私が直接出向いても良いんだけど。もしかしたら、直哉さんと遭遇してしまう可能性もある。ここは――)「ははっ。面白くなってきた」 唯衣は声を出して笑っている。「あの女、どんな顔をするんだろう?」・・・ 凜華は体調も回復し、以前のように過酷なホテル従業員としての勤務を続けていた。(仕事は大変だけど、琥珀くんや涼真から日葵の日用品を届けてもらったから、ありがたい。レトルト食品とかも入っていたから、助かっちゃった) もう少しで退勤時間。凜華は今日の夕飯について考えていた。(住んでいるところは古いけど、ちょっとは普通の生活を送れるようになって幸せだわ。ご飯をきちんと食べて、体力を落とさないようにしないと)(また病気にでもなったら、日葵に寂しい思いをさせちゃう) 日葵も元気だが、しばらく離れて生活をして以来、大きな声で泣くことがあった。 凜華が日葵から離れようとする瞬間、彼女のご機嫌が斜めであれば、声をあげる。(寂しい思いをさせちゃったから。日葵も私がどこかに行っちゃうとでも思っているんだろうか)「日葵、お母さんはどこにも行かないよ。ずっと一緒だからね」 背中にいる日葵へ声をかけ、社員寮の自分の部屋へ着いたその時――。「なによ。これ? どうなっているの?」 玄関ドアへ、スプレーで大きく落書きをされていた。 書かれていたのは――。「この女は犯罪者……。誰がこんなことを!?」<この女は犯罪者。注意> 赤文字のスプレーで書かれていた。 持っていたティッシュで文字を擦ったが、消える気配がない。「日葵。ごめんね。部屋の
「直哉さん酷い!私、そんなことしてないわ。どうして私を疑うの!?」 唯衣はその場で声をあげながら泣き崩れた。(ここはなんとしてでもバレないように演技をするのよ。「うっ、うう゛っ」 嗚咽交じりに涙を流す唯衣は、かなりの名俳優になれるくらいの演技を見せた。 だが、直哉はその様子を黙って見守る。(涙は実際に流れているようだ。これが演技なのか?) 真実を突き止めようと直哉も必死だ。(直哉さんは黙っている。はっきりとした証拠がないのね) 唯衣も直哉の様子を伺っている。 自分が涼真と結託して凜華を冤罪にした証拠を直哉がすでに握っているのか。(証拠を追求して出してこないところを見ると、まだ直哉さんは悩んでいるんだわ) 唯衣の演技は続いているが、心の中は冷静さを取り戻していた。「すまない。キミを疑いたくはないんだ。だが――」「私が大切に想っていた姉さんのことで、嘘なんかつかないわ」 ぐすっと鼻を鳴らした唯衣は「嘘をついて、私にどんなメリットがあるの? 姉さんが捕まった時、私だって大変だったんだから」 一流の医者である凜華が捕まったことは、メディアで大きく報道された。 唯衣も関係者としてマスコミに追われる日々を送っていたのを直哉は知っている。「直哉さん。私はやっていない。信じて」 その時、一瞬だが、凜華が捕まった時のことを直哉は思い出した。<直哉、お願い信じて。私はやっていない> 唯衣と凜華の容姿は似ていない。 自分に信じてほしいと訴えてきた姿が重なる。「わかった」 直哉はその時、返事をしてしまっていた。 あの時の凜華と重なって、思わず了承してしまったのだ。「ありがとう。直哉さん!」 唯衣は直哉に抱きつき、耳元で「私、絶対にやっていない。信じて」 そう囁く。 唯衣を抱きしめ返すことができなかった直哉は、動かずにいることしかできなかった。・・・「もしもし?」 唯衣は、味方につけている情報屋に電話をかけていた。「直哉さんが、急に当時の事件のことを勘づきはじめているの。絶対にバレないように、また情報を操作しておいてね。お金は出すから」 あのあと、直哉と食事をすることは避け、大人しく自宅へ帰ってきた唯衣。 自室のベッドへ腰かけ、情報が洩れることないよう手を回している。「桜庭凜華の獄中での様子は特にね。顔の傷とか、直
直哉が電話をかけると、その人物はすぐに電話へ応じた。<もしもし? 直哉さん、どうしたの?>「話したいことがあるんだが……。今日、家に来てくれないか?」<うん。大丈夫よ。直哉さんが仕事が終わった時間に行くね> 直哉が電話をかけた相手は唯衣だ。(電話だと相手の表情がわからない。直接会って顔を見て話した方が様子がわかる) 直接相手の顔を見ながら、話をすることで、表情の筋肉や目線、様子から唯衣が隠していることがわかると直哉は考えた。(本当は、俺に隠していることがないのが一番だが。最近の違和感、情報から唯衣を疑わなければならない。何もなければ、それが一番良い) 凜華の妹だと知りながら、彼女に惹かれていたのは事実。 無邪気で明るくて、素直で……。 自分のことを<好きだ>と思っていることが、伝わってくる。(俺には持っていないものを持っている彼女、無垢な唯衣に惹かれていた部分はある)「疑わなければならないのは、酷だが。唯衣が関係ないことを確認できれば良い」 直哉の独り言を使用人は近くで聞いていた。(唯衣様は、直哉様の前だと素直で可愛らしいお嬢様だが。一般人や使用人には、暴言や時に暴力、虐め、かなり心が狭く、自己中心的だ)(使用人も彼女の態度が原因で何人も辞めている。奥様、凜華様の方がよっぽど素晴らしい妻だった。もしも凜華様が冤罪なら、大変なことになるぞ) 直哉と契約をしている使用人だが、桜庭家のことを理解している彼は、唯衣という人物の隠された姿を知っている。直哉へ公言しないのは、したところで直哉の意見が一番であり、彼が違うと思ったことは通らないことを理解しているからだ。(大人しく指示に従い、共感していた方が今後のためだ) 使用人は通常通り、唯衣を出迎えるための準備をするだけだった。「こんばんは!」 唯衣が桜庭家に現れた。 身体に合ったワンピース、シルク生地の選一されたデザインは、唯衣が好むデザイナーに一から依頼をしたもの。パンプスもこだわり、彼女の足に合うように作らせたオーダーメイド品。「直哉さんはまだ?」「はい。今、準備をしていらっしゃいます。申し訳ございません。少々お待ちください」(直哉さんが私を家に呼んでくれるなんて。すごく久しぶりだわ。電話ではいつもの直哉さんだった。準備をしているって言っていたわよね。もしかして、プロポー
「直哉!お願い信じて」「私はやっていないの!」 約一年前、凜華が警察官に連れて行かれる中、直哉は凜華のことを一切かばうことはなかった。「病院の機密情報を持ち出して、それを売るとは。許さない。刑務所の中で反省するがいい」 家から庭に出て、警察車両に乗るまで、最後まで抵抗をしていた。 庭の芝生へ這いつくばり、警察官の足に掴まり、必死に自分ではないと抵抗していた姿は、直哉からすればとても惨めで無様だった。「直哉!」 何度名前を呼ばれたことだろう。 しかし夫は妻を擁護するわけもなく、妻の犯罪を認める。 聞き取りには「妻がやった可能性もあります。アリバイもありませんから」 淡々と答え、凜華が家にいた時間でさえも「彼女の行動は把握していません」 そう答えていた。 自分が経営している病院に対して、凜華が行った行為は許されることではない。経営者として、病院を守る側として、凜華を許すわけにはいかなかった。 裁判の時でさえ「彼女以外、できる人間はいません。病院のシステムをよく理解していましたから。彼女だったら簡単に情報を入手できると思います。裏取引の相手もいそうです」 そんな風に直哉は発言したのだ。 凜華は直哉の発言を聞き、涙を浮かべていた。 もしかしたら直哉が自分のアリバイを立証したり、擁護してもっと証拠を求めたりしてくれるかもしれないなどと、凜華は自分の夫に少しでも可能性を感じていたから。 それがことごとく打ちひしがれ、逆に罪を立証するような発言を凜華は受けた。「誰も信じない」 彼女が閉廷する時、誰にも聞こえないくらいの声量でぽつりこぼした言葉。 これが今に繋がっている。 逮捕直後から裁判中のことを直哉は思い出していた。 凜華は最初から最後まで「やっていない」と無罪を主張している。 どんなに質問されようが「私ではありません」と強く反抗していた。 裁判中、直哉を強く見つめる目線は「助けてほしい」「信じてほしい」今となっては、そんな風に感じられる。「凜華が冤罪だったとすれば、誰が犯人なんだ」 直哉は珍しく頭を抱えた。 情報屋の証言を完全に信じたわけではない。 ただ、本当に凜華が犯人だったとしたら、出所した時に、何かを伝えてくるはずだと直哉は振り返る。 凜華の性格であれば「本当にごめんなさい」「迷惑をかけて」「これからずっと
「今回の事件が作り上げられたもの……。だと?」 普段は頭の回転が速い直哉も、使用人が話した内容がすぐに頭に入ってこなかった。 ゆっくりと使用人は首を縦に振る。「凜華の事件は、冤罪だったと言うのか……?」(何度も調査をしたはずだ。有り得ない。宗像、唯衣、凜華の家族も証言している。機密情報を凜華が盗むことが可能だったということを)(妹の唯衣も、凜華が情報を持って行くところを目撃したと言っていた。それに実際に唯衣が証言したところからデータは見つかった) 直哉は、がしっと髪の毛を掻き上げる。「その情報は信じない」 まるでその宣言は、直哉が自分に言い聞かせているようだった。 信じないのではない、信じたくはないのだ。 逮捕される直前の凜華の顔が思い浮かぶ。<私はやっていない。信じて> そう何度も必死に訴えてくる凜華の顔が目を閉じればそこにある。 直哉は凜華が犯人だと疑わなかった。 警察が逮捕状を出すということは、確実に証拠があるということ。<妻を信じます>と言ったところで、数々の証拠の中、無罪を立証することは難しい。 それに桜庭病院の情報を売られ、裏切られたという気持ちがかなりの面積を占めた。「もう一度、当時の事件のことを洗い直せという旦那様の指示により、今回の情報屋が動いたようです。すると当時の調査結果には不自然な点も多く……」「奥様を犯人に仕立て上げたい人間が数人いれば、誰にでも犯人に仕立て上げられる、そんな点が見られたようです」 使用人は直哉の顔色を伺いながらも、情報屋から得られた報告を嘘偽りなく伝えた。 直哉が否定をしても、それが今できる自分の最大の務めだと考えたからだ。「当時、数多くの身内も凜華が犯人ではないかと証言をしている」「あの女は、身内からも裏切られたと言うのか?」(いや。待て。その身内の中に俺も含まれるのか? 凜華のことを信じようとしなかった俺も)(凜華の潔白を伝えることもせず、すべて捜査は任せていた。警察から凜華の行動を聞かれた時も自暴自棄になり、ただ返事をしていただけだった) 使用人は、再び大きく言葉もなくうなずくだけだ。<奥様が犯人で間違いなさそうですか?> そう警察から聞かれた時、裁判中に尋ねられた時も、直哉は「はい」と一言返事をした。「俺も凜華を冤罪へ追いやった人間の一人だと言うのか?」 直







